自分史を書く意味

自分の歴史を自費出版にて発表したいと願ったある人間の体験から、その時代の社会的な実情を知ることができます。記録として残されるべき資料は、大抵の場合において歴史の専門家や研究家が選別したり、残していくことを決定したりします。現代においては、マスコミなどにより新聞や大衆紙といった文献で社会の様子を著すことも増えてきました。ただ、社会的に見渡してもごくごくささやかな世相の変遷や、大きな事件ばかり選ばれてしまい、平凡な一般家庭などにおける生活風習などは伝わりづらいことでしょう。それがゆえに自分史は、各時代時代を生きた普通の人がどんな生活をし、どんなことに一喜一憂していたかをそのまま知ることができる媒体だといえそうです。自分史は、歴史の間を埋める資料となることでしょう。
では、その自分史はどこからどこまで書けばいいのでしょうか。どこまで書くべきかということは、それぞれの自分史の内容によって変わってくる、難しい問題です。往々にして体験出来ないようなことを紡いでいく場合などは、何をどこまで書いて良いのだろうかという問題にぶつかることと思います。この部分においては、筆者が信念として伝えたいことの内容に関わってくることでしょう。思い出を深く深く掘り返してみて、一般的な感覚からしてとても受け入れがたい事実をそこに見つけてしまった場合、本当にそれを書いて良いのだろうかと筆者にとっても葛藤になることでしょう。簡単な言葉で済ましてしまうにはあまりにも悲惨な戦争体験、誰かが命を奪われたような出来事などを描写しなければそもそも書く意味がないという領域まで達してしまうかもしれません。自分が命を奪われなかったために、今ここで自分史を書けるのならば、そういった悲しい過去を語ることこそが、自分史を書くほんとうの意味となり得ることもあるでしょう。それが恐ろしい現実であったとしても、後の世でそれを繰り返さないために必要なこととなるのです。